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2008年 10月 31日
「兄ちゃん、私生まれてこなかった方が良かったわねぇ」と毎晩風呂だけよばれに来る或る女性が言った。
或る男は内心今更もう遅いよぉ、あんたのために悩んだのにと思ったが、時代の犠牲者である或る女には適切な言葉が浮かばず何も言えず沈黙していた。
「今度生まれて来たら、どうなってかぁ、馬鹿な事」と少し日本酒を飲んでいて、新たな酒のツマミを拵えていた或る男の父はそちらに目・耳を奪われていたためか、まともな返答をせずに逆に問い返す形となった。
しかし、或る男は父の返答は聞き間違えたのかぁ、話を逸らすためかぁ、彫りの深い頬が扱けた表情に戸惑いを感じていることを読み取った。
「ビールあるかなぁ」と或る男は雲行きを考えて、すかさず話を紛らわした。
「なぁ次郎、ばぁちゃんに線香上げにきてくれる、ばぁちゃんは次郎が来ると一番喜ぶから」
「解った行く」
「ねぇ、長い事居れへんのかぁ、何時帰るんなぁ、二年に一度は帰ってこんとあかんよぉ」と或る女は寂しげに或る男に昨日答えた筈の問い掛けをしてきた。
「明後日の朝」と短い言葉で或る男は缶ビールの栓を引きながら答えた。
或る女は隣の部屋に行き、或る男の弟を祭っている仏さんに線香を上げ毎日の日課である経を読みだした。
「姉さん、帰るわ」と経を読み終える鐘の音が鳴り、仏さんの傍らのベッドで腰を痛めて横たわる或る男の母に労わる様な声を掛けた。
「じゃ、次郎、明日、線香上げになぁ、もう帰るわぁ」と或る女はそう言いながら着替えの風呂敷を持ち立ち上がり玄関を締め出て行った。
次郎は生まれて来なければ良かったという言葉に、時の流れの非情さを感じ、自分の偏った苦悩が故郷の闇夜に空しく描かれた。
白々しくなりつつある早朝一番の電車で、故郷の川を後に・故郷の緑深き山並み・紺碧の故郷の海を見続けていると空白の時代を感じ、空白になる前の時代の光景が走馬灯のごとく鮮明に浮かんできた。
次郎は辛うじて維持してきた生きる目的が、まるで砂の城が城壁から波に削られる如く失いかけた。
# by singukamikura | 2008-10-31 22:15 | 恋愛

